友人の
ブログにこんなコメントを書いた。
障害者という言葉が普通になっているから、ついつい使ってしまうけど、私はどんな違いも全て個性だと思ってます。多くの人と違うものを持っている人は、やっぱり違う所にtalentを持っているのです。ただ、気付いてない人が多いのかもしれない?
そして、個性あふれる方達は、私たちに気付きを与えてくれる。気付いたなら、使える五感に感謝すべきだよね♪
アメリカに来た私は英語が話せない障害を持っていました。でも、チャレンジ精神だけでここまで来ました。そんな感じ?
challengedという言葉に、以前触れた事があった。
私の両親は耳が聞こえないという個性を持っていますが、父は先天性ではなく中途失聴者。彼は『聴力さえ失わなければ、何だってできたのに・・・』と愚痴る反面、『障害という意味は邪魔という意味も含んでいるんだ!私たちは邪魔な者なのか!?』なんて捩れた思想で怒りながら『耳が聞こえなくても、やろうと思えば何でもできるんだ!』という思想も同時に持ち合わせている不思議な人だった。大きな怒りをいつも露わにしていた人だった。(過去形なのは、今は穏やかな?じいちゃんだから)
昔は人と違う事を隠そうとしたり、恥ずかしいと思う傾向が強かったよね。今もそういう風潮はあるけれど・・・。
そういう風潮も父は大嫌いで『堂々と手話を使うんだ!』と言っていた。意味わかるかしら?多くの人と違う部分を恥ずかしいと思うな。こそこそするなってこと。
だから私は一般に障害を持っている。ということに対して、同情はしない。(勝手に頑張れ!と言ってるのではなく、共に頑張ろうということ)
誰でも、人と違うものを持ている。ただ、片寄りがあって・・・人数の多い人中心に社会が出来上がってしまっているから、日常生活にも支障が出たりするのかもしれない。
随分前にこんな記事を読んだ。
聾者しかいない世界に、耳が聞こえる人がぽつんと入ってきたとしたら、手話ができないその人が障害者なのだ。
その通りだと思った。もっと辛口な記事もあったけど、それは控えておきます。
この際書いておこう。
子どもが居ていいねと、子どもを通じて世界が広がるからうらやましいなと思う人がいる。
子どもが居なくていいね、自分の好きなことができて、自由に出歩けていいねと思う人がいる。
(同じように、「小さくていいね」とか「大きいからもう手が掛らないでしょ」と言うのも同じ)
自由が利かないから、沢山の人に助けてもらえていいねと思う人がいる。
自由が利いて、自分ひとりで行動できていいねと思う人がいる。
結局、考え方なのだと思う。みんなそれぞれいろんな悩みを抱えているものです。幸せそうにみえていても、苦しんでいたりする。
そういう悩みも含めて、人と違う個性と考える。『悩む=生きている』
自分の個性を受け止めて、上手く付き合っていければ良いなと思う。
それから、「いつも助けてもらってばかりで申し訳ない」って話しを耳にすることがあるけれど、助けられてるって思っている人は、実はお手伝いしてくれてる人を助けてるんですよね。
えっと・・・手伝いたいと思っている人の気持ちを満たしてくれているってこと。
どんな状況も、助け合っているのだということ。
人の幸せを自分のことのように喜べる人が、人の悲しみを苦しく感じてくれる人が、この世の中にたくさん・・・
あふれるほどになって欲しいと、10代の頃からずっと願っている。
人の幸せをうらやむのではなく、人の悲しみを陰で笑うのではなく・・・ね。
そういう仲間が沢山いることが嬉しいです。ありがとう!!